『野次喜多本』登場人物の新たな“ちょっといい話”(25)金子喬俊さん

 

生れは群馬県だが、山紫水明の岐阜に縁あって住みついたという金子さんは、
福沢諭吉の大ファンで、もちろん慶應を出ているし、
先日も浜松町(大門)のわが社に寄られた時、
福沢諭吉がこのあたりに住んでいたと捜し歩くような人である。
(『野次喜多本』より抜粋)

昨年の真夏、7月26日から7月31日まで名古屋の栄にある、妙香園画廊で
『野次喜多本』100人似顔絵展 黒澤淳一・画 を開くことを決め、
100人のうちの一人、岐阜の金子さんにも声をかけたところ、
足が弱くなり名古屋に行くことが難しいというので、
せめてご挨拶にと、私が岐阜に電車で行くと電話を切った。
それを友人が聞いていて、真夏の岐阜、熱中症にでもなれば大変と気使いし、車を出してくれた。
何年ぶりかの楽しい再会を終え、久しぶりに岐阜を後にした。

7月27日、展覧会が始まり、初日テレビの取材があった。
夕方5時過ぎの、中部地区エリアの「テレビ愛知」のニュース番組で紹介されたところ、
岐阜の金子さんから茶の間で「テレビ見たよ」と、嬉しいお電話を貰った。
ここでもテレビ、マスコミの凄さを再認識した。

後日、9月25日、名古屋の友人から彼が「ご逝去されました」とお電話を貰った。
すぐに、彼の「お別れ会の案内」が届いた。何と人間と言うのはもろいものなのか、
彼からの「テレビ見たよ」は、私には彼からの最後の言葉になった。
思い出というのは人を楽しませるものであるが、時には人を寂しがらせないでもない。
私には、彼からの「テレビ見たよ」というひと言、それは、寂しいが、
歳を重ねると“ちょっといい話”近くになり、私の心に強く残っての9月の一周忌になった。
合掌。
(喜多謙一)


(展覧会が紹介された、テレビの1画面) 


(『野次喜多本』より 1984年のロサンゼルス五輪のマスコット) 

金子さんはブラザーの一番の情報通で、1984年のロサンゼルス五輪スポンサーの話しも彼の友人が持ち込み、
ブラザーは民間企業スポンサー第1号になったことは、歴史に残る壮挙。ここで記しておきたい。
その後の五輪は、すべてスポンサー付きとなっている。

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